気持ちに触れる
先週末から一緒に住んでいる小1の男の子の様子がどこかおかしい感じがした。
なんというか兄弟でじゃれ合っている時にも、喧嘩している時にも、親に反発する時にも何かと声を張り上げる。耳に障る甲高い声を出す。そんな状態が三日ほど続いたことから不思議に思い、どんなことが隠れているのか考えた。
その親である”Nほ”と一緒に考えていたが、そんなに話す間もなく、急にNほが、「学校であんたの話し真剣に聞いてくれる人がおらんくてさみしいっちゃろ!!!」と、あいかわらず大声を張り上げているE太郎に切り込んでいった。
その言葉を聞いた瞬間にE太郎の声がピタッと止んで、堰を切ったように泣き始めた。それは、悔しさであり、さみしさであり、安心の感じられる涙だった。
E太郎は学校での周囲との関わりや、先生との関わりに困っていたのだった。自分の思いが伝わる感じも、向こうの気持ちが伝わってくる感じもしてなかったのだ。話を聞いて心苦しくなった。(母に自分でもうまく表出できない気持ちに触れられてほっとしたような安心も感じた。)
そんな苦しさが声を大きく出すという形で表出されてきていたのだと思うと、「俺、学校で周りの人たちとうまくコミュニケーションが取れなくて困ってる」って言葉にして言えないことが心や行動に及ぼす影響はとても大きなものだと怖くなった。
言えない原因は、
①表現力が足りない
②何らかの思考が邪魔して言えない
③いえる環境じゃない
④感じない、気づかない
の4つが主かなって思う。
赤ちゃんは①だから泣く。「今○○って感じてるよね、そういうときは○○っていうんよ」って言って表現力を養う。
そのうち②がたくさん出てきそう。「こんなこと言ったらかっこ悪い、はずかしい」「自分でなんとかしなきゃ」親や先生などなど周囲の価値観が入り始めたころそういうジャッジを自分でするようになってくのかな。とくに相手が聞き入れようとしてくれなかったら絶対言おうとは思わないよね。
それが③につながってくとおもう。安心できる環境じゃなきゃほんとのことなんてとても話せない。
それが続いていくといろんなこと諦めて、たくさん蓋をして④になっていくんだろう。
実際に目に見えているのは声が大きいという迷惑行為。自分が先生やってる時もそうだった。うるさい生徒に「うるさい!なんでそんなにおおきいこえだすん!?」だった。
そいつはもう俺のことは信用してはなかっただろうし、彼もなんでそうなっちゃうのかわかんなかったんじゃないかなって思う。目に見える問題だけに焦点当てて、それを指摘して消火する言葉をかけることは簡単。結局見た目だけ一瞬鎮火したように見えて全然火種は消えてないないけど。
気持ちは目に見えないからなんか軽視されがちな感じがする。確証ないし、数値化することも難しい。何よりそんなこと学校で教わんない。誰にだって絶対あるものなのに。
あの日のあの瞬間、その小さな芽をNほがちゃんと引っこ抜いたことがその後E太郎の人生に及ぼす影響って計り知れないと思った。その話の後も元気なことには変わりなかったけど、耳鳴りがするほどの声ではなくなった。
「気持ちに触れる」
目には見えないけど確かにふっと何かが届いた感じがしたあの感覚。
自分もいつかっ!