屋久島で考えたこと
屋久島の記事が長くなったので分けることにした。
屋久島ではぼーっといろんなことを考える時間が続いた。本当は上を向いて深呼吸して、大自然を身体中で感じたかったんだけど、
上を向けば雨が目に。
深呼吸すれば雨が鼻に。
何もしなくても雨が身体中に。
な状態だったので、
下向いちゃたよねー。
自然よりも、トロッコの木目見てた時間の方が長いわー笑
でもいいの!
あんなにびしょびしょになれることなんてそうそうないよ!
雨ぬれ放題。
川だって入り放題。
泥んこになったって誰にも怒られないよ!
足元から流れる水の力や温度肌触りを感じられ、より一層自然の中に溶け込んでいっていたのかもね。
そんな屋久島で考えたことは
たくさんあるけど、
大きくは2つ
1つは
「自然が洗練された形」
ということ。
屋久島には所狭しと植物が生えまくってる。
それぞれが太陽や栄養を求め、
背を伸ばしたり、根を張ったり、
様々な工夫をして自分の居場所を勝ち取る。
歩いていて気づいたのは雑草が少ないこと。
それは他の山でも同じなのかもしれないけど、
地面まで光が届かない。
だから背の低い植物はなかなか生きられる環境じゃないんだろうね。
強いものが勝ち残る。
弱肉強食。
動物の世界の言葉に聞こえていたそれらが、
実は植物にも適用される。
他のことにも全部適用されてるのかもしれない。
雨の降っていた屋久島の川はとんでもない水量になっていた。その濁流に当たってもビクともしない超巨大な岩。
自分の力ではなく、強いものに寄生し、栄養を奪い取る植物。
強さには色々な形があるけれど、とにかくどこにいっても何もかもがそれぞれ生きること、その場にあるということに必死だということを感じた。
そこには言い訳なんて存在しない。
ただただ生きていられるか否かの世界。
そんな洗練された世界、形が屋久島にはあった。
屋久島の美しさはそんな静かなワイルドさにあったのかもしれない。
人間の今後も似たものになっていく、
もしくはなっているのだろう。
これまでは、組織という大木に寄生することで栄養を得ることが当たり前だった。
しかし、これからは独立し、自ら栄養や日光を得ようとする人たちがどんどんと生えてくる時代に突入していく。
そういった流れに押され、それまで安心して生きたいられた大木が倒れてしまう時が来るかもしれない。
それまで当たり前だった方法が通用しなくなった時、自分で勝ち残ることのできる術を持っているか否かというのは重要なことだ。
常に考え成長を続けていくという意思を持たなくては生きていくことはできなくなっていくのではないかと感じた。
そんな世の中は怖いがとても挑戦的で、美しい気もする。
変化し、進化し続けることが安定することにつながる。
矛盾しているみたいだけど、多分そうなんだ。
もう一つは、
「育ててもらったものを越えていく」
ということ
三代目杉
という杉は、倒れた1代目、2代目の杉の上に育ち、今ではその倒れた部分が朽ち果て、大きな穴を開けている。
それでもなおどっしりと図太く生きていた。
それを見て感じたことは、
自分を育ててもらったものを越えていく
ということ。
それは親であり、教師であり、コーチであり、その他自分の師と呼べる存在のすべてである。
その師に教えを受けるとき、
その師からはたくさんのことを受け取り、
自分の上に君臨するものかもしれない。
でも、
その教えを受けた者の使命は、その師を越えていくことだと感じた。
その教えを踏み台にして
他のあらゆる経験と自分なりに混ぜ合わせ、
その時代にあった形に自分を更新していく
その教えを更新していくことにこそ価値があるのだと感じた。
自分の中に、
そういった師は越えられないというか、
越えてはいけないもののように感じていた。
上とか下とか
そういう考えがまだ根深かったんだろう。
むしろ越えていくことこそその人たちへの恩返しであると気づいた。
だから
学校の先生なんて
越えられてなんぼだよね。
むしろ越えられないような育てしかできなかったら育成失敗だよね。
自分のことは必要とされなくなる。
くらいがちょうどいいんだと感じた。
いまは誰かに何か教えるような立場ではないけれど、
いつか自分が親になったり、
なにかの師になった時に、
そういうマインドは持っていたいし、
育てられる側として、より高いところを目指して成長する意思を強く持っていたいと感じた。
サンキュー屋久島!